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kawaiiWorld 50

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『竜馬は往った』連載その3

今晩は渋谷陽一です

竜馬はどこへ往ったのか?その解は未だとかれていない。
しかし、竜馬は歴史マニアの世界に往っていないことだけは確かである。

素直に、司馬遼太郎をいずれ我が子に読ませたいと思う。
しかし、強制としてではなく、本人の意思として読んで欲しいとも思う。

これだけネットやメールが発達して、人生に迷いを感じた時、二十年、三十年前よりも、実に多くのカウンセラーに出会うことは可能であり、その取捨選択も時間と費用をかけずして容易にできる。

その選択肢から、司馬遼太郎を選択することも可能であろう。
だが、願わくば、ネットに頼らず、自らのネットワークで司馬遼太郎に辿り着いて頂きたい。
 私自身もネットを利用して営利活動をしているが、ネットに接続すれば、ある程度の疑問や不明な事柄を即座に解決してくれるだろうという、安心感なり、信頼感があるのは事実である。

ただ、「知識レス」というか、自身の脳の活動をネットに肩代わりしてもらっても大丈夫、だから、自分自身の頭は使わない、ネット依存主義者が増加しているのも事実である。

 例えば、乃木希典と検索して、「日露戦争の英雄」という答えが無数に結果として出れば、乃木は偉人だと自身の脳にインプットしてしまう。
 
 当然である。

ネット上で無数の他人が「偉人」だと主張しているから疑いをもつ必要がない。
ネットの即効性や利便性からすると、乃木は偉人という解が導きだされることは決して間違いではない。

 しかし、何か違う。

 少し、大上段に立った表現をする。
受験戦争の批判として始まった「ゆとり教育」のもと、「塾」での授業が急増している。

アンチ「塾」派は、そのもてあました時間をどうすればよいのか手探りの状態が今尚続いている。「本でも」読んでいればいいのではないかと安易に考えるが、その親でさえ、活字離れが起きて久しい生活下で、どんな本を読めば良いのか、正直分からないし、その親自身が受験戦争生活をしてきて、勉学のポイントが『受験に必要か不必要か』の二者択一の生き方が心底染み付いた時代に生きている。

皆、結果を急ぎすぎる。

皆、大学を出て、実践社会を経験して、初めてその受験戦争が「さして意味のあるものではなかったのでは」と嫌疑している。

がその「意味のあるもの」が何なのかがわからないし、その解がネットにあるとも思っていない。 
 司馬氏の言葉に、「教育の場では、子供たちに批判する心を、育てねばならないが、同時に人間を尊敬するという心の姿勢も併せてもたさねば、健康で堅牢な批判精神というものができあがらないであろう」というフレーズがある。
盲進でもない、妄信でもない、子ども達の自意識を萌芽する、そのきっかけ創りが教育者に求められる一番の資質ではないだろうか、資質を追求すれば緒方洪庵という解が導き出される。

 久しぶりに、山川出版社の『詳細日本史』を手にとった。
二十六年前に比べより詳細になったとも感じるし、幕末、明治維新の頁の位置が、教科書のかなり中央に位置するなとも感じ、この二十数年という時間の変遷をその教科書に感じたが、時系列を追うしかない手法は、今も何ら変化していない。
 大学受験においては、歴史は選択科目であり、必須科目ではない、しかも歴史も世界史と日本史に分けられており、日本人において、日本の歴史を学び続けることすら薄らいでいる。
 受験を前提にした授業の中で、司馬氏がいう「人間を尊敬するという心の姿勢」を教えるのは、公然と「私は無宗教です」と主張することを「よし」とする世間の風潮からすると、よほど勇気がある教師が存在しない限り、歴史上の人物を自身の言葉で語ることはリスクがある。
リスクとは差別意識と同じである。
自ずと一般的に「そういわれている」と表現するしかない。
画家や音楽家の好き嫌いは言えても、思想家、商人、数学者のそれは、あらゆる角度から表現しないと難しいし、それをしていたら、授業は前に進まない。


今日はここまで


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